- 総合商社の歴史を学ぶことのメリット
- 総合商社の歴史
- 総合商社の歴史を就活で”うまく”使う方法
就活を目前に控えた皆さんにとって、総合商社は間違いなく魅力的なキャリアパスの一つでしょう。しかし、就活生が企業分析をする際に、”総合商社の歴史”について注目する人は少ないのではないでしょうか?
総合商社の歴史を学ぶことは、単に過去を振り返る行為ではありません。それは、総合商社が複数の業界にまたがるビジネスを展開する会社に至るまでの経緯には多くの示唆に富んでいます。
他の就活生より一歩進んだ企業理解をすることで、総合商社への内定獲得を有利に進めましょう。
目次
総合商社の歴史を学ぶメリット
総合商社について学ぶことは大きなメリットを生み出します
志望動機や”なぜこの商社を選ぶのか”という質問に対して、就活生の方は以下のような言い回しをよく使います。
OB訪問を5名させて頂き、全ての社員が親切で人情に溢れており、御社の皆様と一緒に働きたいんです!
総合商社の志望動機の王道である人による差別化です。
OB訪問の実績をさりげなくアピールできますし、人の差別化で入社している社員も多いので、一見良さそうに見えますが、以下の落とし穴もあります。
- 総合商社は数千人の社員がいるのでサンプル数が少なすぎる
- 人のイメージは主観であるため、面接官の共感を得られない可能性がある
- 他の就活生が10人以上OB訪問していたら、努力量で負けてしまう
- “人の差別化”で入社した人の生存者バイアスであり、実際は多くの就活生が”人の差別化”で内定を逃している(可能性)
従って、面接の志望動機やなぜこの商社を選ぶのか、という質問に対して、主観のみの主張は意見として弱いと言えます。
一方で、歴史を織り交ぜて”人の差別化”を話すと、主観で感想だった意見が、客観的事実に基づく仮説に変わります。
御社には〇〇といった歴史があるからこそ、▲▲という経営理念が生まれ、XXといった象徴的な事業を取り組みにつながっていると考えています。
事実、OB訪問を5名させて頂いた際も社員の皆様は■■であり、御社の経営理念を体現されていました。
私自身の経験を振り返っても、御社の歴史や経営理念に深く共感しており、御社の皆様と一緒に働きたいです!
OB訪問を行う熱意に加え、企業理解が進める準備力、事実に基づく仮説を持って話せるインテリジェンスもアピールすることができます。
面接官も主観の意見に対しては否定できますが、客観的な事実に基づいての意見は否定しづらく、納得感を得やすいでしょう。
歴史を学ぶことは非常にコストパフォーマンスが良い差別化です。
歴史は会社の文化・経営理念・会社の伝統的かつ象徴的なビジネス・総合商社の強さの本質を紐解く上で有益な情報です。加えて、すべての商社や関連グループが総合商社の歴史を紹介しています。しかし、どの就活生の方もやりません。
- 会社の文化・経営理念を事例を用いて理解できるので、働く環境をイメージできて入社ギャップを減らせる
- 歴史ある象徴的なビジネスを抑えることで、各社の得意なビジネス分野を紐解ける
- “総合商社冬の時代”を乗り越えてビジネスモデルを変えてきた事実から、総合商社の強さである変革力を学べる
このように、総合商社の歴史を学ぶことは、面接に加えて入社ギャップを埋めたり、企業理解にもつながるメリットがあると言えます。
総合商社の歴史
それでは、総合商社の歴史について解説していきます。といっても、歴史は主観ではなく、論文や事実ベースのお話となります。
江戸時代に日本は鎖国をしながらも、オランダや秦王朝と貿易をおこなっていました。幕末になり、1858年にアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアと就航通商条約を結ぶと、日本の限られた居留地を起点に貿易が始まりました。具体的な居留地は、函館、横浜、長崎、兵庫、新潟です。
同年、伊藤忠兵衛が大阪経由泉州・紀州に持ち下りと言われた行商を始めています。詳細は後ほど説明しますが、伊藤忠・丸紅は1858年を創業の年としています。伊藤忠兵衛は伊藤家の次男であり、長男ではないため分家として実績を積み上げていくこととなります。
1865年、坂本龍馬が長崎で亀山社中を商社の先駆けとして立ち上げ、のちに海援隊としてガリバー紹介から購入した戦艦を薩摩藩に販売していました。この海援隊の流れ組むのが岩崎弥太郎が設立した三菱財閥です。
日本の総合商社の原型は,日本の近代化の始まりである明治時代の貿易会社である。明治政府の「富国強兵」「殖産興業」政策を受けて,国内の鉱業資源や繊維原料,食品などを輸出して外貨を獲得し,欧米列強の技術や物資を輸入する役割を担っていたと言える。
日本総合商社の特質
1870年代、明治時代になると殖産興業の一環で商社が設立されるようになります。しかし、言葉や商慣習の違いから外国との商取引の専門家集団が必要とされました。
1873年、長州藩出身で明治政府の大蔵省次官であった井上馨は財政緊縮瀬作をめぐって対立し退職します。同時に、井上馨に才能を認められ、大蔵省幹部にいた益田孝も会社を去ります。その後、井上と益田は商社である先収会社を立ち上げ、長州藩と接点のある井上により莫大な利益を生み出すも、伊藤博文の要望で政界復帰したタイミングで会社を解散させます。しかし、益田が再度商社を立ち上げることとし、元先収会社の社員を中心に商社を再結成し、三井物産が始まります。三井物産は上海支店、パリ支店、ロンドン支店など政府の要望に応じて拡大し、綿花、生糸、や石炭などを取り扱い始めました。
日本は1894年の日清戦争、1904年に始まった日露戦争のなかで産業革命を経験しており、産業発展を支えたものが紡績業です。当初は三井物産が紡績機械の輸入を一手に引き受けて繁盛しますが、日本からの輸入需要に応えられなくなり、他にも商社が誕生します。その一つが後のニチメンとなる日本綿花などです。
また、1872年に伊藤忠兵衛は分家として呉服屋商の紅忠を開店独立し、繊維工場を含めて繊維に関連する事業を手広く展開していきます。1904年に輸出業を本格的に開始し、1908年には二代目伊藤忠兵衛が伊藤忠兵衛本部を創設し、1914年に法人化して伊藤忠合名会社を設立します。
1918年には伊藤忠商店と伊藤忠商事の2つに分かれ、伊藤忠商店が呉服関連を、伊藤忠商事が綿糸・海外貿易を引き受けます。そして、1921年に伊藤忠商店が丸紅という名前へ変わります。このように、昨今の丸紅と伊藤忠の源流は同じだったのです。
このころ、1919年に住友商事の前身である大阪北港株式会社が設立されます。大阪北港地域の造成、周辺地域の開発を行い、不動産関連事業を生業としていました。
1914-18年にかけて起こった第一次世界大戦では、ヨーロッパからの輸入が停止し、商社の乱立と規模の拡大が起こります。1916年に岩崎弥太郎の甥である岩崎小弥太は三菱財閥4代目に就任します。当時、三菱財閥のすべての事業を三菱合資会社で行なっていましたが、岩崎小弥太は三菱重工業、三菱銀行、三菱商事、、、などと各事業部門を独立させます。そして、1918年に三菱商事が独立しました。
最も成長した商社は鈴木商店です。鈴木商店は多角化経営に乗り出すも、結果として収益性が減少。1927年に起きた昭和取り付け騒ぎのタイミングで倒産。
三井物産の綿花部門が独立し、東洋綿花が設立し、後に豊田通商が設立されます。
1941年に日本が第二次世界大戦の火蓋をきると、日本はすべての機能を管理するようになります。その流れの中で、伊藤忠商事は、丸紅商店、岸本商店(鉄鋼商社)が統合し、三興株式会社となります。また、1944年で日本の戦況がより不利になると、姉妹会社であった呉羽紡績、大同貿易を併合し、大建産業株式会社を設立します。
しかし、日本は敗戦を喫します。
第二次世界大戦後、GHQの占領政策の一環であった財閥解体が進みます。旧三井物産、旧三菱商事は解体されます。解体の理由は戦争に商社が協力していたと考えられていたこと、イギリス系総合商社のジャーディン・マセソン紹介にとって不要な存在であったためです。
一方、関西五綿と呼ばれる東洋綿花、日綿実業、江商、伊藤忠商事、丸紅、は戦後の経済復興に合わせて成長します。各社は、繊維以外に事業展開をするか、積極的な吸収合併を進めることで、事業規模の拡大と多角化を実現し、総合商社へと姿を変えていきます。また、鉄鋼商社と呼ばれる日商、岩井、安宅も躍進します。
解体が進んでいた総合商社ですが、1950-53年の朝鮮戦争で戦争特需に対応するため、三菱商事・三井物産も再結集され、1954年に三菱商事、59年に三井物産の合同が完了します。
住友財閥は戦前まで商社機能を有していなかったが、1952年に住友商事として参画します。
このように、三菱商事、三井物産、住友商事、丸紅、日商岩井などの総合商社が、アジア、欧米、中東などの海外市場に進出しました。①近代的な設備や技術の導入、②原材料の調達、③製品輸出,④輸出の拡大、を支えるべく、総合商社が台頭します。
商社は海外からの最新技術や設備機械の輸入に加え、商社の金融機能も発揮していきます。
1964年の東京五輪の開催、GNI世界2位への躍進といった過程で、メーカーが製造・開発に集中するために商社は必要とされました。背景には、商社の有する情報収集・投資・金融・交渉の調整などの機能を有していたためです。
しかし、その一方で池田勇人が所得倍増論が出始めるころ、商社不要論が出始めます。メーカーの直販が進めば商社が介入する必要はなくなり、不要になるというものです。メーカーが貿易取引の経験を積み上げるにつれ、商社の代行業務は低下し、商社無用論が議論されるようになります。業界再編も進んでいきました。
1971年のニクソン・ショックで為替が変動相場制に移行して円高状態になります。
これに対し、円高不況対策の金融緩和により余剰資金を抱え、田中角栄の日本列島改造論が土地の価格も押し上げました。土地や株式への投機が暴騰していきます。
そのような中、1973年の第一次オイルショックで原油価格の高騰しこのようなタイミングで、総合商社は投機的な行動、石油の売り惜しみをしたとされ、批判の対象となりました。同時に、メーカーが商社を経由せずに海外へ直販をすることで商社不要論が加速します。
この頃から総合商社は多角化に力を入れ、自動車、電機、金融、不動産などの新興産業にも進出し、不要論に対応します。
加えて、プラザ合意でドル安・円高の方向性へ舵がきられると、低金利政策でお金が投資に回されるようになり、商社は不動産・金融ビジネスへ展開し、商社は①海外資源開発、②海外協力案件、③プロジェクト・ファイナンスといった機能をもちはじめます。
日本の総合商社がフィリピンのマルコス政権に対する政府開発援助(ODA)や、東南アジアでの森林伐採などにより国際的な批判を受けることとなりました。また、1980年代後半のバブル期には総合商社は急速なグローバル化を進め、海外投資や買収などを積極的に行いました。
一方で、プラザ合意を契機とした円高の進展により、日本製品の競争力が低下し、総合商社は収益を確保することが困難となりました。
バブル崩壊による不況などにより、多くの企業が経営不振に陥りました。その後、総合商社も事業の再編やリストラなどを進めました。また国内向けの投資にも力を入れており、特にコンビニやスーパーといった小売業会への投資が目立ちます。
新興国市場の急速な成長に伴い、総合商社はアジアを中心に投資や事業展開を強化しました。また、エネルギーや食料などの資源分野においても、需要の拡大に対応するため、資源開発や貿易事業などを拡大しました。
また、商社が連結経営を重視するようになり、2004年には日商岩井とニチメンが合併して双日となり、2006年はトーメンが豊田通商に合併されます。この時期になると投資経験の蓄積によって投資がうまくいき始め、資源価格の高騰も追い風となり、商社の業績が改善していきました。
総合商社もデジタル化や環境問題などの社会課題に取り組むようになりました。また、グローバルなビジネス環境の変化に対応するため、M&A(合併・買収)やジョイントベンチャーなどの戦略的な提携も進められています。
総合商社の歴史から読み解けること
個社としての総合商社ではなく、総合商社全体の歴史としてわかることを考えていきましょう。
総合商社の強みは以下の7つに集約されますが、歴史を読み解くことでなぜその強みを培えたか理解できるかと思います。
- 人:優秀人材が集まり続け、経営者候補の営業だけではなく専門職(法務・会計)なども内製化
- モノ:多くのグループ会社と連携したネットワークを構築(→ネットワークは目に見えませんが、とんでもない価値があります。)
- 金:権益事業・トレーディング・投資事業によってお金を生み出し、そのお金を貸したり再投資で雪だるま式に増加
- 情報:グローバル・幅広い業界・多様な商流から情報を吸い上げ、ビジネスチャンスをうかがい続けている
- 信頼・実績:数百年続く歴史が信頼と多くの実績を生み出し、ビジネスにつながっている。
- 知識・知見:知識の蓄積により難易度の高いビジネス(=参入障壁の高いビジネス)へ挑戦ができる
同時に、これらの強みが他の企業で模倣することが難しく、他競合の参入障壁になっているとも言えます。また、トレーディグ事業のように、参入障壁が易化したとしても、新たなビジネスモデルを創出することで進化を続けるレジリエンスさを持っています。
ソニーの創業者である井深大氏は「実績に勝るモノなし」という言葉を残していますが、まさに実績を積み上げ続ける総合商社の強さがわかります。
総合商社各社の経営理念・ミッションをまとめると、すべての総合商社が社会への価値提供、すなわち社会貢献の文脈を金揃えています。
- 三菱商事「豊かな社会の実現に貢献することを目指して」
- 伊藤忠商事「三方よし」
- 三井物産「世界中の未来をつくる」
- 住友商事「健全な事業活動を通じて豊かさと夢を実現する」
- 丸紅「社是「正・新・和」の精神に則り、公正明朗な企業活動を通じ、経済・社会の発展、地球環境の保全に貢献する、誇りある企業グループを目指す」
事実、総合商社各社の事業はすべて人々の生活に入り込んでいます。エネルギー産業や食料まで、日本人の暮らしの当たり前を守るだけでなく、デジタル事業やブランドの輸入などで生活を彩る価値も生み出しています。
総合商社の存在が豊かな世界を作り・世界の未来を作っていることは明白でしょう。
戦後の総合商社発足がキーワード
各総合商社の歴史はありますが、就活で重要なのは今の総合商社の文化と結びつける事です。各商社を表す
三菱や三井の特徴を見ていくのは、第二次世界大戦後の組織再編を見ていくと理解できます。GHQの占領政策の一環であった財閥解体が進み、旧三井物産、旧三菱商事は解体されます。解体の理由は戦争に商社が協力していたと考えられていたこと、イギリス系総合商社のジャーディン・マセソン紹介にとって不要な存在であったためです。
ですが、戦後朝鮮戦争の特需に対応するためにも総合商社が復活します。ただ、三菱・三井では総合商社としての設立の仕方に違いが見られます。
三井・三菱・住友により、商号護持運動が展開され、1952年(昭和27年)、財閥の商号・商標使用が解禁されると、三菱商事は早々に再合同を果たし、三井系においても三井物産復興の機運が高まった。旧三井物産系14社による協議の結果、「三井物産」の商号は大合同実現の暁まで14社のうち、日東倉庫建物に一時的に預けることとしたが、その直後、日東倉庫建物は突如、「三井物産」に商号を変更、翌年、有力4社のうちの1つ、室町物産と合併した。これに対し、他の有力3社第一物産、第一通商、日本機械貿易は、第一物産の名称で合同し、新・三井物産との間で対立したことで合同に遅れが生じた。1959年(昭和34年)2月、三井系主要12社の介入により、旧三井物産系商社が大合同し、現在の三井物産が発足したが、三菱商事の合同からは4年遅れとなった
Wikipedia
三菱が三井よりも4年ほど早く総合商社として設立されます。この時点で、三菱商事が組織的な動きを、三井は個で活躍する印象を持ちます。このような組織再編の速さには、戦前のネットワーキングの作り方が関係すると考えられます。
解散後の新会社の作られ方に注目した。戦前の三井物産では支庖の自営性が強いのに対して 三菱商事では商品部による支庖の統率力が高く,特に戦時期にその力が強まった。こうした両社の組織の特性の違いから三井物産では解散時に同一部署に在籍した核となる人員の社内での人的ネットワークを中心に新会社が作られたのに対して 三菱商事では商品担当部署ごとに新会社が作られる傾向が強く,その結果,三菱商事の方が新会社への人的資源の専門性や商権が引き継がれやすい傾向にあった。そしてこうした新会社の設立のされ方が 再結集後の戦前在籍者の配属における業務の連続性に違いをもたらしていたと考えられる。
戦後三菱商事・三井物産における戦前期人的資源の継承
つまり、戦前からの文化として、三菱は統率的(=大局的に合理的な判断)で動いていた一方、三井は人の熱意や現場力をそれぞれの特徴としていたことが分かります。このような文化を持った会社がGHQに解体され、再集合をしようとすると、三菱は根幹が”統率・組織力”なので再集合が用意ですが、三井は”現場・個人”なので再集合に時間がかかるのも理解ができます。
そして、再集合によるごたつきや統率の影響も、業界の順位に影響を及ぼしていると言えます。
人員数で戦前に存在した三井物産と 三菱商事の格差が戦後に解消されたため, 1961年時点の両社に占める戦前からの人的資源の継承者数(人数)という点では.三井物産の方が戦前からの人的資源の継承という点で優位な状況にあったことが確認された。
しかし,それらベテラン社員の戦後の配属先を確認した結果, 三井物産では部署によって差はあるものの戦前からの業務の継続性が相対的に小さかったのに対し.三菱商事では戦前・戦後の担当業務の連続性が三井物産に比して大きかった。 この点で,三菱商事の方が商権の維持や後進の育成という面では有利にあったと考えられる点を明らかにした。
戦後三菱商事・三井物産における戦前期人的資源の継承
三菱は組織や人が早いタイミングで綺麗に再集合できたため、分断後も持ち前の統率力で、担当領域毎の最適な人的配置ができたと言えます。一方で、三井は再集合に時間がかかったり(→人的リソースの流出や組織毎の不和も発生か?)、良くも悪くも人の個性に依存する配置となり、担当業務の連続性がかけたと言えます。
このような点も、三菱が商権の維持や体系化した知識に基づく後進の育成において有利であったと言えるでしょう。そして、それが昨今の三菱1位、三井2位を決定づける一因であるのでしょう。
結束の住友商事は戦前の歴史がなく、戦後に作られた総合商社です。従って、財閥出身であるものの、5大商社の中では最も若い商社です。そのため、三菱・三井とは異なり住友の根源的な理念である”住友の事業精神”と当時の必要な要素に基づいて設立されています。
「住友の事業精神」とは、住友家初代の住友政友(1585-1652)が商売上の心得を簡潔に説いた「文殊院旨意書(もんじゅいんしいがき)」を基に、住友の先人たちが何代にもわたって磨き続けてきたもので、その要諦は「営業の要旨」として引き継がれています。
-省略-
住友商事グループの根底には、いつの時代でも、目の前の変化に惑わされることなく、「信用・確実」「浮利を追わず」「公利公益」に重きを置きつつ、「進取の精神」をもって変化を先取りしていくという、400年にわたり脈々と受け継がれてきた「住友の事業精神」が流れています。
住友商事
住友商事は信用や公益性を非常に強く意識して設立された会社であると言えます。加えて、当時の住友商事を取り巻く環境は、戦後で雇用が維持できない世界でした。
第二次世界大戦の敗戦で住友本社の解体が決定的となり、住友本社職員および日本各地、外地からの引揚者のために職場を開設することが緊急課題となり、さし当たって大資本を必要とせず、大量雇用も可能な商事会社の設立案が浮上した。しかし、戦後の経済情勢で独立の商社設立が困難なため、不動産・建設会社で資産内容が良好な住友土地工務に商事部門を併設することになった
住友商事
人々を雇用し飯を食べさせるために立ち上がった住友商事は、まさに多くの人々の生活を守るため、つまりは公益性の精神を基盤にしていることがわかります。
また、結束とはこの事業精神と後進組ゆえの自力の弱さの2つの影響があると考えられます。まずは、結束の意味を確認しましょう。
志を同じくする者が互いにかたく結合すること
コトバンク
つまり、住友商事は公益性の精神に基づく結束力があると言えます。また、同時に後進組であるが故の人材不足・実績不足・知識不足などを内製化できておらず、この遅れを補うためにもグループ内での連携を強めつつ、三菱・三井の背中を追いかける必要があったと言えます。これが結束の所以でしょう。
歴史でもお伝えした通り、伊藤忠と丸紅は元々の創業者は同じであるため同じグループだと言えますし、また財閥系でもないということで、三菱・三井・住友とは明確に区別することができます。
まずは復習ですが、伊藤忠と丸紅が別れたのは大正時代の初めです。1918年には伊藤忠商店と伊藤忠商事の2つに分かれ、伊藤忠商店が呉服関連を、伊藤忠商事が綿糸・海外貿易を引き受けます。そして、1921年に伊藤忠商店が丸紅という名前へ変わりました。
このため、伊藤忠と丸紅の源流は同じであり、そして財閥企業でもないのにここまで事業規模を大きくした事実が伊藤忠・丸紅の強みです。
初代伊藤忠兵衛、大阪経由、泉州、紀州へ初めて麻布の持ち下りをする(伊藤忠商事創業)。
伊藤忠の歴史
初代伊藤忠兵衛15歳のとき、行商の足を大阪、紀州あたりまで延ばし麻布(まふ)の「持ち下り」商いを始める。そして、翌年には岡山、広島、下関を経由して長崎に至る。このとき、日本はアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの5カ国と修好通商条約を結び、自由貿易時代が始まった。忠兵衛は「外国人、軍艦、商館を一瞥し、奇異の感を懐き、驚異の眼を開く」とともに、商いの道の無限の可能性を確信するのであった。
伊藤忠の源流は”ビジネスの可能性を追求し0から開拓してきた”点です。財閥でもなかったため、小さな卸売業務から始めていき、足で顧客まで届けていく、、、今の伊藤忠・丸紅の事業規模から考えると考えられない始まり方をしています。創業から根付いているこの開拓者精神と、財閥などのネットワークを自立してきた力が特徴です。
加えて、財閥とは異なるプライドも持っているでしょう。そもそも、財閥系企業には財閥を支える主要な企業があり、以下は各財閥の御三家と呼ばれる企業です。
三菱御三家:三菱商事、三菱重工業、三菱UFJ銀行
三井御三家:三井物産、三井不動産、三井銀行(現在の三井住友銀行)
住友旧御三家:三井住友銀行、住友金属工業(現在の日本製鉄)、住友化学
住友新御三家:住友商事、住友電気工業、日本電気(NEC)
住友は旧御三家・新御三家と呼ばれる括りがあり、歴史の若い住友商事は新御三家に含まれます。財閥をエリート思想と断言するのは安直かもしれませんが(とは言え理解できなくはないかと思います)、三菱商事、三井物産、住友商事はこの御三家の一角としての誇りを持っていると言えます。
しかし、財閥のない伊藤忠・丸紅にとってはこの御三家という括りはなく、先述した開拓者精神も相まって、エリート集団というよりも、泥臭く戦える野武士集団といえます。また、御三家が3社ある財閥系商社は、3社で協力して財閥のグループ企業を引っ張っていく発想ですが、伊藤忠・丸紅は、御三家という括りがないため、「伊藤忠・丸紅グループ企業を伊藤忠商事・丸紅が先頭で牽引するんだ」という意識があります。
また、特に伊藤忠は5大商社の中で最も従業員数が少なく少数精鋭なので、一人一人が伊藤忠グループを牽引する負担が大きくなります。
立場 | 会社としての雰囲気 | |
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財閥商社 | 御三家の1社 | 他御三家企業と協力して財閥を成長 財閥が故のエリートの誇り |
非財閥商社 | グループ企業のトップ | グループ会社を先頭で開拓する存在 非財閥としての開拓者精神 |
財閥か非財閥かの歴史的な違いが、商社としての戦い方にも違いを生み出し、その結果求められる人の素質なども異なることがわかります。
終わりに:総合商社の歴史は商社の違いを理解する上で重要
総合商社の違いを「人」で説明する就活生は非常に多いですが、OB訪問した数少ない事例かつ主観に基づく意見だと、説得力に欠けてしまいます。
しかし、歴史を紐解き、会社の成り立ちを理解することができれば、自然とカルチャーや事業ポートフォリオの背景がわかりますね。